鎌倉市立御成小学校一号棟調査報告書から
2014年5月15日
鎌倉市立御成小学校一号棟調査報告書(校舎全体の建設経緯を含む)
平成8年1月
財団方針日本建設センター
目次
1.はじめに
2.鎌倉市立御成小学校の建築的沿革
3.鎌倉市立御成小学校一号校舎の設計・施工者
4.鎌倉市立御成小学校一号校舎の建築的特徴
5.鎌倉市立御成小学校一号校舎の建築的意味と復元再建
6.おわりに
1.はじめに
本稿は、鎌倉市立御成小学校一号校舎に関する建築史的調査の報告書である。実測調査は(財)日本建築センターの依頼により、平成7年11月1日から5日までの5日間と、11月8日から11日までの4日間の計9日間で行われた。その際の調査員は、横浜国立大学工学部建築学教室の吉田鋼市(助教授)、菅野裕子(助手)、榎並和人、久保伸幸、萩原裕一、山本薫子、富永信忠、宗形百華、山口耕司、湯村泰成(以上学院学生)、遠藤太郎、重村賢太郎(以上学部学生)の12名で,西山和宏(同大学院学生)と山口百合果(同学部学生)の2名は部分的に調査に加わった。
記
建築名 | 鎌倉市立御成小学校一号校舎 |
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所在地 | 鎌倉市御成町19番1号 |
竣工年 | 昭和8年10月 |
設計 | 昭和8年10月 |
竣工年 | 不詳 |
施工 | 鈴木富蔵・蔵並長勝・三橋幾蔵 |
構造 | 木造二階建て、洋風小屋組(キングポスト・トラス) |
規模 | 建築面積 1146.38㎡、一階床面積 1116.13㎡、二階床面積 1058.04㎡、延べ床面積 2174.17㎡ |
屋根 | 波型亜鉛鉄板葺き寄棟および半切妻、一部は鋼板瓦棒葺きおよび平板亜鉛鉄板瓦棒葺き |
外壁 | 長押曳きの南京下見板張り、一部漆喰塗りおよびモルタル塗り仕上げ |
基礎 | 外周壁および東西突出翼部と主屋の境界壁部分はコンクリート布基礎、他の壁部分はコンクリート独立基礎、その他はコンクリート束石に束立て |
2.鎌倉市立御成小学校一号校舎の建築的沿革
鎌倉市立御成小学校は、昭和8年11月20日、御成尋常高等小学校として創立を見た。鎌倉町立の三つ目の小学校で、本来は第三尋常高等小学校と名付けられるべきところをこの名称としたのは、この学校の敷地が明治23年から昭和6年まで鎌倉御用邸として用いられて来たことに因む。授業開始は同年12月1日。この時、昭和3年4月創立以来第一尋常高等小学校に併置されていた鎌倉町立実科高等女学校が移転して御成尋常高等小学校に併設されることになった。したがって、翌9年3月1日の開校記念式の際に出版された「落成開校記念絵葉書」(平成6年9月に「御成小学校移転改築を考える会」によって復刻されている)には、この両校の名が併記されている。御成尋常高等小学校は、国民学校令施行に基づき昭和4年に現名称となり、今日に至っている。この間、当初から併設されていた実科高等女学校は、市立高等女学校ついで市立高等学校と名称を変えながらも、昭和27年まで(一部は昭和28年まで)併置されていたし、昭和22年に新設された御成中学校も、昭和24年まではこの小学校の校舎を借用していた。この二校あるいは三校の共用時代、各校舎がどのように用いられていたかは詳らかでないが、昭和28年以降はもちろん、その以前も主として小学校の校舎として用いらてたと思われる。
さて、校舎の竣工時期であるが、御成小学校蔵の「学校永代記録」は、これを昭和8年10月14日と記す。すなわち授業開始の一カ月半前ということになる。この時、号・二号・三号の三棟の校舎と、講堂、使丁室、便所、渡り廊下など全ての施設が完成を見ている。また、一号校舎の小屋裏に付された棟札には「上棟 昭和八年七月二十六日」とあるので、上棟からおよそ3カ月で竣工したことになる。残るは起工時期であるが、これは不明。しかし、御用邸跡地の払い下げを受けたのが昭和6年10月、また「昭和七年六月六日提出」と記す御成小学校営繕費の臨時予算説明書が「昭和七年町会会議録及議決書綴」(鎌倉町役場)の中に残されているから、着工はもちろんそれ以降、おそらく昭和8年になってからではないかと思われる。つでながらこの臨時予算説明書によれば、御成小学校の建築費は総額 120,000円で、その内訳は、整地費 8,000円、新築費 92,459円、設計・監督費 2,700円、整備費 15,000円、雑費 1,841円ということになる。もちろんこれは予算であって、必ずしも実際に執行された金額ではない。
つぎに創建時以降の建物の変遷を、一号校舎に関わると見られるもののみ、先の「学校永代記録」に従って記そう。昭和24年3月に給食調理室が完成しているが、これは一号校舎東側と廊下で結ばれていた使丁室を増設する形で設けられたものと思われる。そして昭和33年12月には、給食調理室および使丁室が工費92万円で改造されている。従って現在、一号校舎東側に別棟で存在する旧給食調理室等は概ね昭和33年の建物と見なしてよいであろう。続いて昭和37年には「校長室及び放送室」、「保健室、宿直室、職員更衣室」などの改造工事が行われている。「校長室及び放送室」の改造は、当初校長室と応接室として用いられていた一号校舎一階の中央階段室東の二室のうち、西側の応接室を放送室に改造した事を示すものと思われる。この時、校長室の三方のドアが引き違いから開き戸にされたのであろう。なお、校長室は昭和47年にも「拡大」工事が行われているが、これは放送室を二号校舎に移し、一階の中央階段室東の二室とも校長室として用いられるようにしたことを指すのであろう。つぎの保健室は二階東南隅の部屋であるが、当初は教室として一室であったものが、今日見るように部屋内の南側に小室と畳の部屋が区画されたことを指すのであろう。そして宿直室と職員更衣室であるが、これは一階の中央階段西側の当初宿直室であった部屋を、今日見るように二室に区切り職員更衣室に転用したことを指すものと思われる。さらに翌昭和38年には、「第一視聴覚教室の改造工事完了」とあるが、これは二階東端部の、当初は二室の裁縫室だった部屋の改造を指すものであろうか。この部屋は使用されなくなる直前は「ことばの教室」として用いられていた。
昭和41年には「校舎雨樋全部の新規取り替え」が行われており、昭和47年には「校舎各所補修」と「電気設備改修工事」が行われている。そして昭和48年には、「本館屋根葺替工事」が工費438万円で行われ、同時に「照明工事」が工費118万円で行われているが、この「本館」は一・二号校舎を指すものと考えられる。なぜなら、三号校舎の屋根は昭和53年に、講堂の屋根は昭和39年に、それぞれ葺き替えかれた旨の記述があるのに対し、一・二号校舎の屋根葺き替えに関する記述が他にないからである。さらに昭和51年には、一号校舎の廊下の床板が張り替えられ、各校舎の「窓枠修繕アルミサッシ取り替え」工事が行われている。また翌昭和52年には「校舎土台補修工事」が完了し、昭和56年には「一号棟の柱補強」工事が行われている。これは、外壁の各隅部の柱に厚板を二方に張り増し、他の主たる柱にも厚板を張り増して従来の柱とボルトで緊結したものである。
「学校永代記録」から拾った一号校舎の改造の記録は以上であるが、唯一の増築ともいうべき一階西昇降口の東側のモルタル塗り外壁をもつ職員便所に関する記述がない。これは、昭和30年代の増築になるものであろうか。また二階の中央階段室東隣の来賓室(後に会議室)の東側に並ぶ二つの教室は、かつて作法室と呼ばれた一室の大部屋であったが、この教室への転用の時期も詳らかにしない。戦後まもなくのことであろうか。いずれにしても、一号校舎は、先に見たように内外の改修はしばしば行われているけれども、職員便所を除けばさしたる増築はなく、基本的には創建当初の姿を保っているのである。
二号校舎と講堂の創建後の変遷についても簡単に触れておこう。二号校舎は、ほぼ一号校舎と同じ時期に同様な改修を受けて来たが、平成3年4月に東半分が取り壊され、今日見るような姿となった。講堂は、先述のように昭和39年に屋根が葺き替えられると同時に外壁に塗装工事が施され、昭和50年には床の張り替えと塔屋の修理が行われ、さらに昭和54年には再び屋根と塔屋の修理が行われているが、基本的には創建当初の姿で現存している。なお、三号校舎は昭和58年3月2日に焼失している。
ついでながら、御成小学校の校門は珍しく冠木門の形式をとっているが、これは御用邸の門に因むものである。現在の門は、開校当初からトラックとの衝突で大破する昭和23年7月まで用いられていた、御用邸時代の木造の門を昭和30年9月に工費55万円をもって鉄筋コンクリートで復元したものである。ただし位置は当初より大分北側に寄っており、また昭和52年に改修工事が施されている。
3.鎌倉市御成小学校1号校舎の設計・施工者
現在は取りはずされて保管されているが、この調査時点では一号校舎の小屋裏、中央突出翼部の小屋組の最南つまり母屋寄りの束に、棟札が打ちつけられていた。材質は檜、形はオードドックスな尖頭型、大きさは総高92.8cm、肩高89.5cm、肩幅29.0cm、下幅26.5cm、厚さ3.2cmという立派なものである。この棟札の裏側には、先述の上棟の日付けと共に、「鎌倉町長 清川來吉、同助役 沼田弘三、建築委員 黒田久蔵、同 山田利八、同 三橋直吉、同 小長井千代蔵、同 磯部利右衛門、監督 白岩正雄、同 蒲野七五郎、同 斎藤慎、請負人 鈴木富蔵、同 蔵並長勝、同 幾蔵」という墨書がある。これにより、施工を担当したのは鈴木富蔵、蔵並長勝、三橋幾蔵の三名であることがわかる。
鈴木富蔵は長谷の大工で、生年は不詳だが、三人のなかでは最年長であったものと思われ、御成小学校竣工の翌年昭和9年2月25日に亡くなっている。養子常吉が後を継いだが、大工はこの常吉の代で終わったという。蔵並長勝もやはり長谷で請負業を営んでいた人で、大正13年に蔵前工業専修学校高等工業部建築科を卒業しており、御成小学校建設時は30歳にとどかぬ若年であったと思われるが、「マスヤ」という古くからの宮大工の出身の故か、この大仕事を得ている。後に長きにわたって鎌倉市の市会議員を務め、昭和38年に亡くなっている。三橋幾蔵(明治7~昭和27)もまた長谷の大工で、御成小学校建設時は50代後半の働き盛り、後を継ぐことになる子息定百もこの建築に加わったという。なお、幾蔵の孫にあたられる幾太郎氏が現在も三橋工務店を経営しておられる。
ところで、昭和戦前期の鎌倉には、「五人組」と通称された大工たちが活躍していたという。すなわち、大工の万吉(もしくは万蔵)を略して「ダイマン」と呼ばれた石渡万吉(もしくは万蔵)、同じく「ダイイク」こと三橋幾蔵、「モトキチ」こと三橋元吉、「ナオキチ」こと三橋直吉、「セキ」こと関藤助である。三橋元吉と三橋直吉は兄弟であり、代々の長谷の宮大工の出身で「ダイサン」とも呼ばれた三橋三五郎のそれぞれ長男と三男。ただし、三橋幾蔵と元吉・直吉兄弟は縁戚関係ではない。三橋直吉は当時の町会議員で、先述の通り、御成小学校の建築委員に名前を連ねており、これの施工を請負うことはできなかったであろう。この「五人組」に蔵並長勝と桜田工務店を加えれば、ほぼ鎌倉の戦前の主だった施工業者の名は挙げたことになるかもしれない。鈴木富蔵は、これらの人たちよりやや上の世代に属するのであろう。要するに、御成小学校は、当時の老・壮・青の世代を代表する鎌倉の施工業者によって建てられたことになる。なお、三橋直吉が営んでいた三橋工作所にかつて勤めておられた金子善三氏(最近亡くなられた)は、石渡万吉(もしくは万蔵)、三橋元吉、関藤助も御成小学校の建設に関わったと記憶しておられたが、あるいは彼らも手伝いとして加わったかもしれない。今日も巷間に、御成小学校の建設は鎌倉の大工が総出であたったと伝えられているが、この伝聞もあながち間違いとは言えないのである。
しかし、一号校舎の施工をより直接に担当したのは、棟札に記された三人の誰であろうか。実は、講堂にも一号校舎と同形・同大の棟札が現存しており、墨書の内容もほとんど同じである。ただ、「請負人」の三人の記述の順番が蔵並長勝、鈴木富蔵、三橋幾蔵となっている。つまり、蔵並と鈴木の順番が交代しているわけで、これから推察するに、一号校舎は鈴木富蔵が中心となって担当し、講堂は蔵並長勝が主として担当したということになる。二号校舎と三号校舎の棟札が無いので確たることは言えないが、二号校舎は三橋幾蔵が主として担当したのではなかろうか。そして三号校舎であるが、これも三橋幾蔵である可能性が高い。その根拠は、現在、御成小学校に「鎌倉町立御成小学校新築第参号校舎平面図」と題された図が墨入れされた約98cm×29cmの大きさの檜の板が保存されており、その板図の裏面には「安田豊蔵作図」とあるが、この安田豊蔵(昭和44年に78歳で没)が、三橋幾蔵の子息定白と叔父・甥の縁戚関係にあるからである。それに、おそらく三人の中では最も働き盛りであったろう三橋幾蔵が最も多くの仕事を請負うというのが自然な感じもする。ともあれ、一号校舎は鈴木富蔵が中心となって建てた建物で、鈴木富蔵最後の大仕事ということになるだろう。
しかし、問題は設計担当者である。先述のように「昭和七年 町会会議録及議決書綴」にある御成小学校の臨時予算説明書は、「設計費千円」を計上し、「監督費」として「雇員二名 月俸八十五円十ヶ月分千七百円」を計上している。このことは、設計・監督が外注されたであろうことを意味する。ところで、件の棟札に「監督」として白岩正雄、蒲野七五郎、斎藤慎の三名が記されていることはすでに述べた。このうち蒲野七五郎は、大正年間に町会議員を務めた元議員であることがわかっているが、他の二人については不明。したがって、この三人が監督を行ったことは確かであろうが、設計までも行ったかどうかはわからない。あるいは、先述の三号校舎平面図の板図の存在が示唆するように、施工を請負った業者が実質的な設計者である可能性もあるし、あるいはまた、棟札に記された建築委員の一部が設計に関わっている可能性もある。ちなみに、棟札に記された10人の建築委員は全員当時の町会議員であるが、そのうち4人が建設と関わりのある本業の出身である。すなわち、黒田久蔵が材木商、三橋直吉が建築請負業、大木常吉が土木請負業、(糸へんに「戸」)井金之助が左官業であり。なかでも注目されるのが先にも述べた三橋直吉である。
三橋直吉の後を継いだ三橋武雄(明治31~昭和44)は、早稲田大学建築家を卒業したアーキテクトだからである。三橋武雄は旧姓後藤、大正13年に早稲田工手学校を卒業後、渡辺仁建築工務所に勤めるが、同年直吉の長女フミの入婿となっている。結婚後早稲田大学に入学、昭和3年に卒業している。卒業の前後から三橋工作所で設計活動を開始し、最近姿を消した大庭医院(昭和3年)や、現存する自邸(現三橋英夫氏邸、昭和5年)などの作品を残している。一号校舎の正面ファサードの中央突出翼部の妻面に見られる大胆な洋風の意匠の存在は、建築家のなんらかの関与を想像させるが、それが三橋武雄であるという確たる根拠はない。御成小学校の建築の設計者については、結局は分らないのであるが、棟札に記された人およびその関係者の中に設計を行った人がいることはまず確かであろう。そうでなければ設計者の名が棟札に記されている筈だからである。今後の新たな史料の出現が待たれる。
4.鎌倉市立御成小学校一号校舎の建築的特徴
まずプランから述べよう。御成小学校一号校舎は、東西に主たる棟を通し、北川を正面として玄関および昇降口を設ける。中央および東西両端に突出翼部があるので、全体としてE字型(あるいは工の字型)の伝統的でモニュメンタルなプランとなる。ついでながら、御成小学校の当初の配置そのものもまた、三つの校舎を川の字型に並べ、その上端の中央に講堂を置くというほとんど左右対称型の伝統的でモニュメンタルなものである。もっとも、一・二号校舎は総二階建てであるのに対し三号校舎は平家であり、また一号校舎と二号校舎も北側外観はかなり異なるので、配置図で見るほど実際には左右対称性は感じられなかったかもしれない。
教室はいわゆる片廊下型で、南側に教室を設け、北側に廊下を設ける。設計寸法は間・尺なので、その規模を間・尺で述べると、総桁行48間、梁間5.25間となる。ただし、両端に梁間5間の棟が、北側に4間、南側に1間突出しており、また中央部に同じく梁間5間の棟が北側に2間突出している。したがって、これを構造的に図式化して記述すれば、桁間38間、梁間5.25間の主棟の両端に、桁行10.25間、梁間5間の棟が直交して付いて、中央の片側に桁行2間、梁間5間の棟が付いているということになる。ただし、主棟の梁間は両端の南側において幅3間2尺にわたって1間分延長されており、したがって、その部分の外壁は東西両翼部の棟の南壁と連続することになり、結局、南壁における両端の一間分の突出部はそれぞれ幅8間2尺となる。また、主棟の両端北側、つまり両端突出翼部と主棟の交差する北側コーナーに幅3.5間、奥行き2.5間の昇降口が下屋として設けられ、中央突出翼部に幅3間、奥行き3間の玄関ポーチが設けられている。なお、現在、西側昇降口の傍にある職員便所は、先述のように後補のものである。
以上で平面の輪郭と規模に関する記述は与えられたと思うが、各階の間取りについてもう少し述べておこう。階段室は主棟の両端、東西両翼部との接点に幅2.5間のもの、そして中央やや西寄りに幅2間のものがあり、合計3ヵ所設けられている。教室の大きさは、東西両翼部のものを除き、すべて4間×5間の20坪、そして廊下の幅は1.25間である。この頃の日本の学校建築のほぼ定型である。ついてながら、関東大震災後、横浜市などの小学校では、経費節約のため教室をこれよりやや小さくして16.875坪としているが、御成小学校は従来の大きさを踏襲している。「鎌倉 御成尋常高等小学校々舎平面圖」という縮尺千分の一の略図面を参考にしつつ、創建当初の用途で一階のプランを記すと、東翼部の北側の部屋が標本室(後にプレールームとなる。以下括弧内の記述は変更された後の用途)、南側が教室(保健室)。東側階段室の隣の部屋から順に西へ記すと、図書室・救護室(教室)、職員室、校長室、応接室となり、さらに中央階段室を挟んで、宿直室(男女更衣室に二分)、二つの教室となる。そして西翼部の北側が図書室(家庭科室)、南側が教室ということになる。なお、中央玄関ポーチ左右の小部屋のうち、東側は湯沸かし室として用いられていたようだが、西側の方ははっきりした用途がなかった模様である。
つぎに二階。二階の東翼部の二つの部屋は共に裁縫室(ことばの教室)、東側階段室の隣から順に西へ、教室、作法室(二つの教室に二分)、来賓室(会議室)、そして中央階段室を挟んで地歴室、二つの教室、そらに西翼部の北側が裁縫室(図書室)、南側が教室ということになる。先述の縮尺千分の一の平面図略図と、「落成開校記念繪葉書」所収の作法室内部写真とによって作法室について記すと、それは4間×10間の大きな部屋で、南側全面におそらくは一間幅の板敷きの入側を設け、さらに西端に茶室までも設けた立派な和室であった。しかし、後に畳が取り除かれ、床が張り増されて二つの教室に改造されており、当初の面影はまったくない。また、中央突出翼部の東側の廊下から張り出して設けらている水屋は後補のものである。
ところで、先述の御成小学校営繕費の臨時予算説明書には、「第一号校舎 桁行五十八間 梁長五間二分五厘 階下建坪三百五十坪 階上建坪三百三十七坪五合 計六百八十七坪五合(一坪當五十四円 三万七千百二十五円)」とある。梁長は実現したものとおなじであるが、桁行は実現したものより10間長い。建坪は実現のものとそれほど違わないから、これは48間の誤記とは見なしえない。したがって、これは予算計上時のプランが、全長58間と実現のものより教室二室分長く、中央や左右の翼部はそれほど突出していなかったものと考えることができる。つまり一号校舎も、半分現存する二号校舎とほぼ同じ形でそれよりやや長いだけのものを想定されていたわけで、これが後に、今日見るような堂々たる翼部を備えたモニュメンタルなものに変更されたということになる。おそらく昭和7年の後半に、一号校舎のみ記念碑性を強める形での設計変更があったのであろう。なお、明治期は左右対称であった学校のプランは、大正期からしだいに対称性を崩し、逆L字形(Γ形)のプランが増えていくとされるが、御成小学校のプランは厳格に左右対称性を保持している。
また、大正14年に竣工した神奈川師範学校付属鎌倉小学校の建設費は、坪当たり80円ほどだったというから(菅野誠、佐藤譲 『日本の学校建築』文教ニュース社、昭和58年、本篇 p.788)、御成小学校一号校舎の坪単価54円(二号校舎、三号校舎も同じ。講堂は53円)はそれほど高くはないことがわかる。
さて、つぎに外観の特徴について述べよう。一号校舎は木造の総二階建てで、主棟の屋根は5寸勾配の寄棟、北側正面の三つの翼部は半切妻の妻面を見せる。現在、屋根は波型亜鉛鉄板葺きであるが、古い写真からの判断では、当初は石綿スレートの菱葺きではなかったかと考えられる。平板の菱葺きであることは確かだが、これを石綿スレートとするのは、色が白っぽく見えることと、震災予防調査会が対象4年8月19日に出した「木造小学校建築耐震上ノ注意」の三の(11)に、屋根の材料には「石綿盤、石盤ノ如ク軽量且ツ耐火的ナルモノヲ用フルベシ」とあることによる。そして外壁は、南京下見板張り。下見板は幅7寸、厚さ7分ほどの板を長押挽きにしたものを用いており、比較的幅が大きい。その外観の最大の特徴が、大きく突出してモニュメンタルな姿形をつくりだいしている中央および東西両端の翼部妻壁である。この妻壁の屋根は、先述のように半切妻風になっており、その破風板は、三本の方杖を伴った腕木4本で支えられている。そして腕木の下部には、三連のがらりが設けられている。腕木は先端を四角錐台として、方杖は対角線を垂直線と一致させてとりつけるなど、この妻部分の表現は簡素ながらかなり装飾的である。あるいは、この部分と玄関ポーチ部分のみが、実質的たるべき学校建築における唯一の装飾的部分と呼べるかもしれない。なかでも、中央翼部の妻壁には、このがらりの下にさらに大きな半円アーチ窓が設けられているのである。半円アーチ窓自体は、当時の各地の学校建築に盛んに用いられているけれども、幅3間にも及ぶ大きな半円アーチ窓は大変珍しく、このアーチ窓は中央翼部の印象を決定的なものとしている。そして、このアーチ窓の存在一つで、この建物の中央部外観に、なんとなくアール・ヌヴォー風の雰囲気が醸しだされているのである。なお、このアーチ窓の周囲のスパンドレルの部分は、現在漆喰壁となっているけれども、写真から推せば、当初は木かもしくは金属の板が張ってあった模様であり、アーチ窓の左右の壁にある、現在の盲パネルとなっているタブレットにも、当初はレリーフ様の装飾図柄が見られたようである。
さて、中央部の外観を決定しているもう一つの大きな要素が、玄関ポーチである。これは、先述のように3間四方のプランをもつ立派な規模のものではあるけれども、造形的には、どちらかといえば質実である。床は四半敷風にしたコンクリート土間、壁は漆喰塗り、天井は石膏ボードに漆喰塗り、屋根は寄棟に切妻を組み込んだようなやや複雑な形を持つ銅版瓦棒葺きである。妻壁の梁形の上辺に強い起りが見られたり、束材に強いテーパーが見られたりするなど、少し和風の雰囲気も漂っている。その和風の感じは、妻壁欄間に付けられた桐の紋章で強められているけれども、この紋章は後補のもので、当初の写真には見られない。また、この桐のマークは、いわゆる五三の桐で文字も伴っていないけれども、御成小学校の正式の校章は七五の桐に「御成」の二文字を付している。
つぎに、内部の特色である。教室・廊下を含め、一般的な内部仕上げについて述べると、床は縁甲板張り、壁は腰壁が竪羽目板張りに上部漆喰塗り壁、天井は四隅に空気抜きを設けた目透かし張り、そして窓は引き違いということになる。なお、各教室の一つの隅には掃除用具入れが設けられ、外壁側の床レヴェルに通風のための掃出しが設けられている(現在はほぼすべて閉じられている)。以上と異なる仕上げが施されているのが、当初校長室や応接室などに用いられていた3間×4間の四つの部屋で、この4室の腰壁は鏡板張り、そして天井は、外周付近を鏡板張りで廻した漆喰塗りとなっており、この天井の鏡板張りの模様と空気抜きの穴との組み合わせは、各室で微妙に異なる。ただし床は、どの部屋も他の教室などと同じ仕上げである。もちろん、最も特異な内装となっていたのが、先述のように作法室であったが、これは現存しない。ついてに、高さ関係の寸法を少し記しておくと、一階の床レヴェルは地盤面から2尺3寸、一階の教室の天井高さは、部屋によっても若干異なるが、およそ11尺、二階の教室のそれは、およそ10尺8寸である。これは、文部省が明治37年に出した「学校建築設計要項」の「第1章 総説 教室」の項に「牀ノ高ハ二尺三寸以上トシ」とあるのや、「第2章 小学校 教室」の項に「教室ハ平家二階家ニ拘ハラズ天井ハ牀面を距ルコト九尺以上トスベシ」とあるのに応じるものであろう。これからすれば、御成小学校の天井高さは、通常よりかなり高いということになる。
さて、今日、最も特徴的というべき内部空間は、二階中央の突出翼部である。この5間×2間の平面をもつスペースは、1間毎に立ち5連のアーチで結ばれた柱で廊下と隔てられ、大きな孤を描くアーチ窓から採光されるユニークな場所で、特段の用途はもたず、時に展示室などに用いられていた模様であるが、最も印象的なスペースである。つぎに注目すべきは、三つの階段室。これは先述のように、中央のみ幅が半間狭いが、意匠的にはすべて同じである。階段の親柱には、簡素ながら十分に魅力的な細工が施され、手摺りの笠木は滑らかな曲面を持つ。先述の「学校建築設計要項」の「第1章 総説 建築内ノ通路」には、「階段ハ幅四尺五寸以上六尺」とあり、この階段幅は6尺であるから、これは考え得る最も広い階段ということになる。一号校舎の階段室の魅力は、このゆったりとしたスペースと、それに合わされたかのようにこせこせとはしていない親柱の細工とにあるのだろう。もう一つ注意すべきは、廊下のいくつかの場所に見られるハンチを伴った梁のような形をした漆喰塗りの垂れ壁の存在である。おそらくこれはアーチをイメージしたものであろうが、単調に続く廊下の視覚的ポイントとなっており、廊下にリズム感を生み出している。この垂れ壁は、一・二階とも四ヵ所、合計八ヵ所に設けられているが(位置は別冊図面集の平面図に破線で示した)、その位置は、一ヵ所を除いて位置・二階でずれている。奇妙であるが、その理由はわからない。
以上で御成小学校一号校舎の建築的特徴はほぼ述べた。さらなる詳細な記述は、解体を待たねばならないであろうが、一つだけ、興味深い事実を付記しておこう。それは、一階天井裏(つまりは二階床下)の天井版の上の防水紙上に、かなりの鋸屑が見られたことである。それは一面に置かれており、その深さは所により4cmにも及ぶ。上野の奏楽堂の解体修理の際に、壁や床下に藁が詰められているのがわかり、それは音響効果のためだとされているが、この鋸屑はなんのためであろうか。防音のためとも思えず、あるいは防水のためであろうか。現在のところ、その意味もわからないし、同様の例が他にあるかどうかも寡聞にして知らない。
5.鎌倉市立御成小学校一号校舎の建築史的意味と復元再建
御成小学校の講堂は、特異な和風の外観の故に、近代和風の希少な遺構として、その重要性は衆目の認めるところであるが、一号校舎の意匠については講堂ほどの特異さがあるわけではない。むしろ、昭和初期のオーソドックスな木造校舎の遺構とされるかもしれない。もちろん、戦前の校舎建築の遺構そのものがはなはだ希少であり、また関東大震災以後の都市部での校舎建築が概ね鉄筋コンクリート造であることを考えれば、戦前創建の木造校舎であるというだけで十分貴重ではある。しかし、この一号校舎が単に戦前の木造校舎の一典型に必ずしもとどまるものではないことを、これまでの記述をまとめる形で述べておこう。
まず一号校舎のE字型(あるいは工の字型)の左右対称でモニュメンタルなプラン。一般に震災後の校舎建築のプランは、機能性を優先させて左右対称形がくずれていくとされるが、一号校舎はそれに逆行するかのようにきわめて記念碑的である。正面三ヵ所の翼部の突出は十分に大きく、またその立ちも普通よりも高く、その外観はまことに堂々としている。この記念碑性は、先述のように設計の最後の段階で付与されたものであり、おそらく講堂の一種の記念碑性とペアで考案されたものであろう。このいわば遅れてきたともいえる外観の記念碑性に、これの建設に携わった人々の意気込みが感じられるのである。
つぎに、三ヵ所の翼部妻面、なかんずく中央翼部妻面の意匠。この妻面の意匠も、あるいは当時の普通のものと考えられるかもしれないが、少なくとも大きな半円アーチ窓は特異である。中央部の強調は、通常はクラシックな細部を伴ったアーチ窓によって行われるものだが、それに代えてシンプルで大きな半円アーチ窓にした工夫は注目されるべきであろう。
そして内部では、この半円アーチ窓に応じる二階の翼部のスペース。この特定の機能をあたえられていないスペースは十分にユニークであるし、またゆっくりとした三ヵ所の階段室も十分に魅力的である。総じて、一号校舎は、昭和初期のものとしては、むしろ伝統的な形を多く残しているように見える。一号校舎の価値はこの伝統を維持しようとする意欲の方にこそ求められるべきかもしれない。さらに、御成小学校が戦前の鎌倉の大工のいわば総力をあげて建てられたという棟札によって確かめられた事実。つまり御成小学校は、戦前鎌倉の公共建築の歴史の一頂点をなすべき存在でもあるのである。
したがって、一号校舎が再建される場合には、まずそのプランの形が尊重され、そして外観においては、正面中央および東西両翼部の妻面の意匠が正確に復元されるべきである。そして内部では、中央翼部の二階のスペース、および三つの階段室。これらは、現存の部材を可能な限りそのまま用いて復元されるのが強く望まれる。また、二階中央の旧来賓室、一階中央の二つの部屋、旧校長室と旧応接室、この三室の復元および、少なくとも一つの教室の正確な復元も望まれる。
6.おわりに
以上、御成小学校一号校舎の建築について述べてきた。この記述には、単に上述の期間における実測調査において得られた知見のみならず、これまで鎌倉市市長室文化振興課の依頼によって長年行ってきた戦前の創建になる鎌倉の他の建物の実測調査によって得られた知見も大きく与かっている。特に鎌倉の戦前の請負業に関する記述はそうである。戦前に請負業を営んでおられた方々、あるいはそのご子孫の方々からはその時々において貴重な談話を聞かせていただいた。記して感謝したい。また、蔵並長勝の経歴についての得難い資料を提供して下さった堀勇良氏、「学校永代記録」その他の資料を見せて下さった御成小学校の方々、そして改装中に快く資料を閲覧を許可された鎌倉市立図書館、落成開校記念絵葉書の復刻版を恵与された御成小学校移転改築を考える会にも感謝したい。
末尾になったが、この調査を終始補佐され、多大の助言を与えられた鎌倉市教育委員会教育総務部の白木浩二部長、小野田清課長、松本哲二主査の三氏に心から感謝したい。松本氏には根気のいる議会議事録の調査にもご協力頂いた。また実測調査を的確に準備して下さった日本建築センターの金谷勇治氏と岡田良祐氏にも感謝する次第である。
1996.1.28 吉田鋼市